「あういう世の中のためにならない人は消えてしまえばいいんだ。」
報道で、いろんなコメントやニュースを見て、そんな思いが湧き上がってくることがあるかもしれません。
審判は、自分の手で下すことではないとわかっていても、自然と心の中に在る感情が湧き上がってきます。
最近、私自身、そして、現地法人社会の多くが憤りに満たされた一つの事件が、このカンボジアの社会に起きました。
それは、世界遺産アンコールワットの在るシェムリアップで、日本人青年が現地人ドライバーを強盗目的で殺害したというニュースでした。
こちらの人は、日本人はみな心がやさしい人ばかりと思っているので、驚きを持ってこのニュースが伝えられました。
日本人は、善の心しか持っていないと思っているような人さえいます。
当然のごとく、私自身にも、周りのカンボジア人から、なぜ日本人があんなことをしたんだと尋ねられることが度々ありました。
私は、そのたびに日本人にもいろいろな人がいるということを、説明しています。
そして、それはあななたちカンボジア人の中にもいろんな人がいるのと同じですよと、補足します。
実は、この説明は、本質的には誤っていると思っています。
根本的には、一人の人間の心の中に、誰でもそのような心が備わっていると思っています。
自らを危険な状況に陥れたり、社会で悪と評価を受けたりすることになるのです。
心をどのように保つことを選択していくか、これは人間に一生突き付けられている大きな課題です。
後日、現地のカンボジア駐在大使が自ら被害者の家族のもとに出向き、お悔やみの言葉をお伝えすると共に、数千ドルの弔慰金を手渡しました。
また、在留邦人会でも、残されたご家族に金銭的な支援を呼びかける働きがありました。
こういうことがすぐ行動に移せるのも、日本人として誇らしく思います。
窮した時にこそ、心の在り方・魂の存在が問われます。
それは、物質的に恵まれているとか、プロパティ(財産)があるからといったこととは、まったく別次元の問題です。
先日
「あなたの人生におけるプライオリティは何ですか。」
と尋ねられました。
私は、即座に答えました。
「愛です。」
その心は、つまり、与えることですね。
プライオリティ・・・優先権。
「・・・してやっているのに。」
「・・・これだけ尽くしてやったのに。」
行動を起こして、そういう心が出てこないのが本物の愛であろうと思います。
与えることで、それ以上にいただいているものがたくさんあります。
それが、喜びです。