他の宗教は邪悪なもの
神社はけがれたところ
教会は禁断の場所
かなりの偏見ですが、少年時代には、正直、こんな風に思っていました。
しかし私には、教師という職業上の倫理から、政治的・宗教的な中立を守り通す義務がありました。
寺社には、高徳院・長谷寺・浅草寺・増上寺など、社会見学引率への必要上、立ち入らざるを得ませんでした。これまでに、どれだけの寺社巡りをしたことか。
また、教会へはヨーロッパ滞在時に長男が現地幼稚園に通っていたことから、必然と出入りすることを余儀なくされました。現地幼稚園は、教会と併設されていたので、幼稚園の行事に参加する度に、聖書を読み、賛美歌を歌いました。
中に入ってみれば、ごく普通の人々がそこにいました。
そして、祈りをささげる人々の心に、邪悪なものはないと悟りました。
こうして、私は、徐々に自分自身の宗教観を変革していったのです。
今では、
寺院で祈りをささげることも、
僧侶にお布施を渡すことにも、
教会で十字を切ることも、
初詣に行くことにも、
まったく抵抗がありません。
特定の宗教に身を置いていても、そうでなくても、信教は個人の自由であっていいと思っています。
そういえば、私の親友も、多くがカトリック信徒のドイツ人でありながら、一切教会には行きませんね。(10%の教会税は支払っているんですが・・・)
子ども時代に作られたもの
それは、人の一生に深く関わっていきます。
皆さんの中にも、何らかの禁止令がありませんか。
その禁止令に勇気を出して向き合ってみましょう。
すべては自分の心が決められます。
私の禁止令が溶けていったという経験から、肩書きと人格は全く別だという例を挙げさせていただきました。
最後に・・・。
別に自分は出身校を隠す必要もないと思っているんですが、ある特定団体を連想される方もいらっしゃるのであえて表記しませんでした。
でもそれも、私の心(意識)が映し出していること。
今、何の抵抗もなく、書けるのは、そういう心のブロックが完全に溶けたという証拠だと受け取っていただけたら幸いです。
最後まで、お読みいただきありがとうございました。
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今日もあなたに喜びの一日が訪れますように。
コメント
コメントありがとうございます。仏教の生地は東アジア。日本でいくら宗派の世論を語っても、外から入ってきたものだと言う認識でいます。私自身は、現在どこにも所属しておりません。ただ神仏に対する敬虔な気持ちだけは持っています。不思議ですね。